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テレ東の都市伝説が久しぶりに面白かった。 ギョベクリ・テペ、今から1万年前の遺跡が発掘されたとのこと。
栗本慎一郎氏の「TBD」を読むと、名曲月の沙漠 はこの大月氏の流浪を歌ったもの、と書いてあるのだけど、 調べてみた範囲ではそのようなことはないようだ…。 氏の妄想なのだろうか…?
http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/mori2.html によると、 既にこの時代、朝鮮半島と倭国語には区別できる特徴があったとのこと。 森博達(ひろみち)京都産業大学教授による魏志倭人伝の言語学的(?)分析による。
15 応神の即位年は二七〇年であるが、これは干支を二順繰り上げたとされている。二 七〇年の干支は庚寅で二順(一二〇)年下ると三九〇年となる。これを真実の即位年 とみると、「百済本紀」の辰斯王や阿花王の記事と合う 落合吉薗秘史第七巻 第二部考察編 第四章「諏訪大明神絵詞」の「三種の蝦夷」p.4 あるいは、大胆すぎる仮説かも知れぬが、「武内宿禰」とは実は蘇我氏で、職名を称 していたものかもしれない 同p.29 ユダヤとは、ウバイド國體とタカス政体を橋渡しするとともに、両種族の事績のうち 不都合な部分を己の行為として敢えて被った(偽装した)民族の謂いである。 すなわちユダヤの本質は企画者でも実行者でもなく、悪評の「被り屋」である 同p.44
2014/05/10 Eテレより。
それまで日本独自のものと思われていた前方後円墳が朝鮮半島でも10数基見つかる。 6世紀初頭に集中し、1世代に限られているのも興味深い点。
時代的に見て、倭国の前方後円墳(3世紀頃)が半島に浸透していったことが分かる。
鉄製兜(カブト)も出土。 倭国にはあったが、朝鮮半島ではそれまで武具を入れるようなことはなく、 極めて倭国的な墓だ、とのこと。
甲冑の様式も、倭国様式(大阪黒姫遺跡(?)出土のものに類似)とのこと。 (当然、時代的に倭国が先)。
冠も出土したことから、倭国出身で百済に来た王権と推測。
任那日本府の問題も、ここから解けるだろう。 倭国から朝鮮半島への浸透が考古学的に証明されたからだ。 しかし、倭国が朝鮮半島を支配した、と言うのが言い過ぎなのも、 上記のように前方後円墳の出土が6世紀初頭に限られているからだ。
わずか37年の国だった。 小学校・中学校で遣隋使・遣唐使という言葉をしきりに覚えさせられたので、 大国というイメージしか無かったけれども、滅びるのは早かったね。
高句麗に3度戦争を仕掛け、3度とも負けている。 高句麗の強さや北の突厥(テュルク)の規模も考えれば、日本史・中国史だけに限定 していては何も見えてこないことをつくづくと感じる。
周囲の異人を倭とか色々と見下げて言うのは、本人が弱かったからだ。
ローマは蛮族とやらに負けた。しかし、野蛮な国に負けたのではない。 高度な首都移動機能付き国家に負けたのだ。牧歌的な「遊牧民国家」という表現に 惑わされてはいけない。 このことを理解しないと、世界史は見えてこない。
同じように、 突厥(テュルク)や高句麗が高度の軍事国家であったと想定することは何ら 間違ってはいない。そして、高度の軍事国家とは、経済的にも豊かでないと 成し得ない。ということは、商業的にも発展した都市が 突厥(テュルク)や高句麗にあったと考えられるのだ。
Wikipedia によると、最盛期には東は遼海(日本海?)、西はアラル海までの 大帝国だったようだ。 この最大版図(6世紀)を見れば一目瞭然。
東西分裂後に東テュルクが700年代まで残ったことを考えると、 日本との影響は無視できない。
また、国が滅べば、当然亡命・難民が発生する。 これは古今東西問わない法則だと考える。
そうすると、日本への影響はあったと考えるのだ。
実際に日本史に残っているのが、高句麗滅亡前後の高句麗の人たちの日本への逃亡だ
(敢えて帰化とは書かない)。
豊浦宮にて。この時、はじめて飛鳥に進出。
遷都、ではない(藤原京まで都はなく、王宮程度?)
** 宗像神社 *** 21枚の鏡 **
** 縁結びにして祟りの神
** 青谷神寺地(あおやかみぢち)遺跡 *** 多くの戦士した人骨の出土
** 出雲〜北陸に多く存在 ** 出雲に豪族が存在した証拠
** 大和政権(前方後円墳)による出雲の征服を意味する
** 出雲の敗北ではなく「神譲り」であった ** 大国主にとって、地上から神の国への ** 役割の分担(政治:奈良、宗教:出雲)の共存社会へ *** 大国主は天皇の守り神となる(祝詞にある)
唐により滅ぼされる。
白村江の戦い、倭国・百済連合軍と、唐・新羅連合軍との間の、 海と陸の会戦。日本、大負け。
既に3年前に百済は唐に滅ぼされている。百済の遺民が倭国に救援を求めたのだった。
この大敗北の後、唐・新羅の侵攻を恐れた天智天皇は 都を難波から内陸の近江に移している。
参考
中大兄皇子(後の天智天皇)による。0668年即位.
高句麗は、日本語での古名は「こま」(Wikipediaより)。
「こま」という言葉で日本に今でも残るものは数多い: 高麗_(曖昧さ回避)
この年、唐・新羅連合軍によって高句麗滅亡。
8年前の百済滅亡・5年前の白村江での倭の大敗に続く、高句麗の滅亡。 倭の唐・新羅への恐怖もピークに達しただろう。
時の高句麗の王子(?)高麗若光が日本に亡命、高句麗人民と共に 高麗郡に移ってきたとのこと。
703年、高麗若光が朝廷から王姓が下賜される。従五位下、ということだから、 後の源氏と同レベルか。
僕は、高句麗の滅亡に思いを馳せ、高麗神社に訪れたのだった。
NOTE: なお、山形明郷氏によると、古代朝鮮の3国(高句麗(TBD)・新羅(シルラ)・ 百済(TBD))と倭は定説とは異なりもう少し北に位置するとのこと。
山形氏の見解については現在勉強中。
わずか3年…。
大海人皇子、皇位継承し天武天皇となり飛鳥に飛鳥浄御原宮を造営。
元明天皇による。
小沢氏: 「桓武天皇のお后は朝鮮半島の百済の王女様とのことだ」
うーん、確かに、ちょっと強引だったねぇ。
桓武天皇による。
わずか10年で廃都せざるをえなかった。その背景は逆説の日本史に詳しい。 方違えの説もあるらしいが、後付と僕は考える。
水路交通・井戸をあらかじめ想定していたこと、 難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築しかなり完成していたこと、 をその理由とする。
何かの歴史の本に永井路子氏だったかが寄稿していたが、ここまで労力を注ぎ込んで 作った都をわずか10年で破棄せざるを得なかった桓武天皇の絶望感は、確かに 想像するに余りある…。
それだけ怨霊というものが信じられていたのだ。
それだけ、自らと藤原氏とで下した血で血を洗う政争が凄まじかったのだ。
桓武天皇による。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130416-00000003-sasahi-sctch
かつて松島湾南方約10キロほどの地点に大根(おおね)島があり、貞観(じょうがん)地震(869年)で海底に沈んだとされる。
2012/07/27 NHK BS 北条 vs 朝廷
8代 北条時宗
応仁の乱の発端となり、戦国自体の原因ともなる享徳の乱、関東に起こる。
2017年9月9日、フジ27時間TVのテーマは「にほんのれきし」が なかなか面白い。
その中に、僕の知らなかった歴史事件が。それが 小牧・長久手の戦い。
僕は、豊臣秀吉と徳川家康は共に織田信長の家来で、 豊臣秀吉が天下を取った後は徳川家康は関東(当時の田舎)に左遷され、 その後の関が原の戦いは、豊臣政権の後継者争い、くらいの認識だった。
なので、それに遡ること16年、小牧・長久手の戦いとして 豊臣秀吉と徳川家康が戦っていたことは知らなかった。
で wikipedia の該当ページを読む。
なるほど、1582年 本能寺の変以降、豊臣側と徳川側は対立していたのか。
そして、最後は秀吉側が折れて講和を持ちかけた、と。
旧暦6/23。 数日後の小田原城落城で北条氏照敗北。切腹を命じられる。
** → キリスト教弾圧だけでなく、国内各大名への軍事物資の拡散を防いだ意味もあった
** その後、イギリスは世界帝国に
1680 - 1709 五代将軍 綱吉
逆説の日本史では、通説をひっくり返し、実は名君だったと説いている。 他方、「江戸将軍が見た地球」では、通説に沿った説明をしている。 理由として、以下を述べている:
(*1) BS歴史館 シリーズあなたの常識大逆転!(1) 「“お犬様”騒動 隠された真実」
綱吉のダメな面が強調されている昨今なので、NHK BS で触れていた彼の プラス面を挙げてみたい:
彼の不幸は、この後の一連の事件と天災だった…
「大地震」という言葉の重みを、2011年、今の私たちは理解できるのだった…。
5代綱吉の時代、武士が凋落し、町民が富裕化していた。
吉宗の撒いた世界とのつながりのがここに1つ実を結ぶ。
「屈辱的な条約を結ばされた」と岸田秀氏の本で読んだが、 事実はそう簡単ではないようだ。
NHK BS 歴史館「幕末・日本外交は弱腰にあらず」は大変興味深かった。 ペリーの武力をちらつかせた威嚇に対し、 時の外交に応じた林復斎は、理路整然・堂々と対等に渡り合ったのだった。 そして、この段階では「開国」していないのだった。
(2011/09/28 記) (2018/04/28 BS-TBS 「諸説あり」でも同様の議論。ゲスト: 森田健司 大坂学院大学教授)
1853/07/08 ペリー来航に続いて、同じ番組で紹介されていた。
アジアの欧米による植民地化・アヘン戦争という脅威の中、 岩瀬忠震がぎりぎりの落とし所を探していたのだった。 もし私が彼だったら、おそらくはこれほど見事な外交はできなかっただろう。
日米修好通商条約が見事だったということではない。 彼の苦労が分かるのだ。いい番組だった。
彼は井伊直弼によって左遷され、44歳で病死に至った。 しかし、彼の撒いた種は後に大きく育つことになる。
(2011/09/28 記)
フランスのベトナム侵略戦争
戦後ドイツも残酷な道を辿っていた。900万人のドイツ国民が死んでいたのだ。
文化大革命。NHK BS1「中国文化大革命50年知られざる"負の連鎖"」 (2017年)
スタンフォード大学ウォルダー教授らによる死者の推計は数1000万人以上。
革命委員会による粛清が最も破壊力を持った。
ユーロ危機とはこういうことか…: http://www.youtube.com/watch?v=n_jV_CAL4VY
ポイントは下記:
これらの重要性をどれだけ認識できるか、が鍵。
「30年釜茹での刑」からの脱出、或いは「イデオロギーさえも支配の道具」
平成バブル崩壊から30年間停滞していた日本。 一人当りGDPは他先進国と比べても見劣りするレベルに低下(*)。 自分を棚に上げて他人を批判するばかりのニュース…。
劣化情報にまみれ、いつのまにか情弱となった僕がいました。
世界のリアルを直視しよう。
「イデオロギーさえも支配の道具」
こう言い切る北野氏の論は冴え、非常に明快に世界情勢を見るツールを提供してくれる。
そして、僕はこうも思ったのだ。「イデオロギー」を「宗教」に置き換えてみると?、と。
「次は勝つよ」
祖父を戦争で亡くされた北野氏の覚悟が僕の胸に突き刺さった。