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網野氏の本は必読だ。
無縁・公界・楽、異形の王権、どちらも必読文献だ。
眼からウロコ、間違いない。 退屈だった歴史の授業が一変する。
この2冊、以前 blog に書いていたが、データごと消してしまった。 個人で立ち上げた blog なので、保存もない(泣)。
ということで、ここでは最近読んだ「海と列島の中世」の読書メモを残す。
中学・高校で習った「律令制」という単語には、退屈な暗記キーワード、という 思い出しか無かった。
だが、網野氏の本と出会うことで見方が一変する。
日本の方言は多様で、東京育ちの網野氏は九州や東北の会話はほとんど分からないと言う。 多分、僕も同じだ。 ところが、文字として記録された文献は読むことができる。
この落差に網野氏は気づいたのだった。
つまり、均一な文字文化が浸透したわけだが、それも漢字を輸入し・平仮名・片仮名が 発明されたこの律令の時代の特徴なのだ。
氏は、別の章でも以下のように述べる:
…もちろん漢字は中国から入ってきた文字ですけれど、日本列島の社会は非常に熱心 にそれを受け入れています。美濃国…の戸籍…平城宮跡…木簡…美術的な書家の字と比 べてみても遜色がないほど綺麗な字を書いています。 …つまり都…の人々だけでなく、地域の人々も、新しい制度や文字を、…非常にひたむ きで真摯素朴に受け入れたところがあると思われます。(p.194)
1613年、既にペルーに日本人がいたことが分かっている。(p.50)
p.55からの体験談は実に興味深い。
遣唐使、と言うと、(荒波を越えて死も顧みず命がけで唐に渡る、大変な旅) というイメージがあった。しかし、海とは、晴れていれば、これほど移動に 便利な道はないのだった。
海上交通は古代より活発だった。
なのに、律令制を敷いた当時の日本は、五畿七道の行政区分と定め、 東海道等の幹線道路を作り、駅家をたてる一方で、 水駅(すいえき)はほとんど無視していた。おそらくは意図的に。
また、幹線道路は幅広で(10数m)直線の道路を敷こうとしていた、という。 山岳や入江に富んだ日本の地形を全く無視している。
(網野氏の別の本での記述だが) この直線道路は当然、山にぶつかる。当時はトンネル技術など無いに等しいから、 トンネル工事はさておき、出口に当たる山の反対側にまた続きの道をつくろうとする。 トンネル部分は後から造ろうとしたのだろうか。 トンネル部分は道ができないのだから、意味をなさないのだが、国家事業として 強引につくろうとしてたそうだ。そのような道路遺跡が現代になって発掘されているという。
また、調・庸(税)を収めるには海上交通を使わずこの幹線道路を使うことを 定めて(強制して)いる。 役人もこの道路を通って(都と現地を?)往復することを定めている。
海上交通は公から排除された私的な交通網、とされているのだ。
なんとも強引でこっけいですらある。 硬直した思考をトップダウンに適用しようとする 強烈な意思だけは感じられる。
7世紀、白村江で大敗し、国防体裁を急いだ藤原不比等達。 だが、このような奇怪で不自然な制度は早くも8世紀には破綻したそうだ。 この後、再び河海中心になっていくとのこと。 わずか100年足らずでこの構想は破綻したわけだ。
(p.63〜)江戸期も河海中心の交通だったが、利根川の治水工事 (当時、江戸に流れていた利根川を現在の流れに変えた大事業)も、 「治水」とは明治に作られた「神話(=嘘」であり、実は運河事業であったそうだ。
ただ、TBD氏に、下記のような記述がある:
TBD
…とすると、どちらが正しいのか?
もちろん、「可能性の哲学」をめざしている僕は、両方とも正しい、と見るのだった(^_^)/
(p.76〜) 「頭振」という身分があったそうで、これは形式上は水呑と同じ貧農クラスを 現していたことになる。だが、 屋号を持ち船を持ち普代下人を持つ「頭振」がいたことを明らかにしている。
8世紀、時の体制ははじめて「日本」という国号を使うが、この時の 日本とは、東は遠江(今の静岡県西部)・西は本州西端(今の山口県)までだった。 東夷(あずまえびす)と呼ばれた東国(今の関東)・蝦夷(えみし)と呼ばれた 東北・隼人(はやと)と呼ばれた今の南九州は異人の国だったのだ。 (p.116〜)
(p.117〜)
(p.143〜) 済州(チェジュ)島と志摩は既に奈良時代から交流があったことが分かっている。
古く済州島は耽羅(たんら)とよばれ、朝鮮半島の王国とは別個の建国神話を持つ王 国だったのですが、『延喜式』の中に「耽羅鰒(あわび)」が豊後国と肥後国の調と して献納されていることを示す記事があります。 …平城宮跡から出た木簡の中に志摩国…の人が「耽羅鰒」を調として出していたこと を示す資料があります。とすると志摩国と済州島とのかかわりもすでに天平の時代 からあったと考えなければならなくなってくるのです。(p.144)
六浦を通じて、鎌倉は上総、さらには房総全体ときわめて深いかかわりを持っていた (p.163)
…「日ノ本将軍」という称号を…安東氏が称した。(p.255)
15〜16世紀、多数の資料あり。 安東氏は、秋田〜青森〜仙台〜北海道南部を支配した豪族。