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ビックコミックに連載中、リアルタイムで出会った「墨攻」。
ストーリ自体とても面白かったのだけど、 そういう人物が実在したということにも俄然興味が湧き (もちろん、革離ではなく墨子の方ね)、 また、ラストが大変印象的であった。
このラストは森氏の創作ということらしいけれど、 後で触れる松本州弘(まつもとくにひろ)氏もこの伝説については触れていた。
義が日本に輸入された時期が墨子の活躍した時代と重なるらしいのだ。
もちろん、証拠はない。しかし、列島と大陸の活発な交流は 縄文時代からあることは考古学的に立証されているのだから、 このラスト、あながち本当かも知れない、と僕は思うのだった。
日本にも連綿と残る任侠道と墨子の「義」を結びつけてアツく語る本。
入門書とはいかないのかもしれないけれど、読みやすく著者の情熱が 伝わってくる。
日本の任侠道と墨子の思想が実際にどれほどつながっているのか、 僕には分からないけれど、「義」を最高理念とする墨家の思想が 今の日本に失われて久しいことは間違いがない。
「義」の復権を目指す氏の思いは確かに墨子の思想と合わせて 省みなければならない思想だ。
意外だけど、難しい文章だと触れている:
墨子が讀み難い文であり…、古字が有つたり、寫誤や錯簡が有つたり又意味の元來 晦澁なところが有つたり、解し易い部分は讀んでも興味が少かつたりしたためで、 墨説の興味少くて華やかで無いことは既に韓非子に、楚王と田鳩との問答に見えて ゐる通りである。 先秦諸子の中で、公平に評して、墨子は餘り高級の出來榮の文章では無い。
幸田露伴の書く、孔子と墨子の共通点:
と酷論している。この一点で、僕は孟子の底の浅さを観た気がした…。「墨子の兼愛するは是れ父を無みする也、父を無みするは是れ禽獸なり」
孔子と墨子の時代背景の違いは大事だ。
幸田露伴曰く、墨子の時代は孔子の時代よりもますます乱れ荒んでいた。 孔子の理想国家が不十分であることに苛立ちを感じていただろう、と想像する。
墨家は「運命など無い」、とする。
幸田氏・松本氏共に触れている、儒家と決定的に異なる箇所である。
僕はもちろん墨子に賛同する。
むしろ逆に、孔子ともあろう人がなぜ運命論をかざすのか。
ただ、「世界は開かれている」(非決定的である)とする暗黙知の観点からすると、 幸田氏によるところの:
儒家では不可測の「命」が有る
は暗黙知の言う所と通じるようでもあるし、もう少し調べたい所ではある。
ここで言う「楽」は今の音楽のことではなく国家祭礼を指すとのこと。
まぁ、生活を崩してまで音楽に溺れるものではないと僕は思っているから、 墨子の考えに賛同できる
ここも儒教と真っ向から反するところなのだけど、 幸田露伴によれば、
荀子なんどには手嚴しく非樂説を糺彈されてゐる。
らしい。僕にしてみれば、先の孟子と合わせて、 神経質で大人気ない儒家の評価は下がるばかりだ…。
幸田露伴は「人情に遠い頑固論」と苦言を呈していて面白い。
莊子の墨家評を孫引きする:
其の生けるや勤め、其の死するや薄く、生きて歌うたはず、死して服せられず、 桐棺三寸にして而も槨無く、其道や大□、人をして憂ひしめ、人をして悲ましむ、 其爲し難きを行ふや、其の以て聖人の道と爲す可からざるを恐れ、天下の心に 反す、天下堪へずんば、墨子獨り能く任ふと雖も、天下を奈何にせん
ただ、本当に墨子の道は「うるほひ(潤い)の無い」道なのだろうか?
墨子研究家に聞いてみたいところだ。
墨家の思想を現代に生かすにおいて、 まずは墨家の問題点をあげなければならないと思う。
墨家は余りに組織の団結を強調しすぎていたのではないだろうか。
集団自決の伝がある。
死んでしまっては何も後世に引き継がれない。
生き恥を晒しながらも次のよりよき未来のために生き延びるべきではなかったか。
これに関連して、僕は小野田氏を思い出す。
小野田氏は上官の命令を最後まで全うした:
「死ぬな。一人になっても最後まで戦いぬけ」と。
残置諜者の命懸けのミッションなのだ。
墨家の「義」と儒家の「義」、近いながらも、 儒教が国家体制の論理となった時点で決定的な違いが生まれた。
墨家の儒教批判は分かる。
…しかし、それでは、今で言う日本の野党と変わらない。
もちろん、墨家は実践家だった。 科学技術を駆使し、生産性を高め、庶民の幸福を増して行った点で、 口だけの日本野党とはもちろん違う。
しかし、批判はいいとしても、儒家など放っておいて 墨家の理想国家を築いて欲しかった。
そうはならなかったのは、戦国時代を終わらせた秦国が軍事面において 墨家を上回っていたことから分かる。
墨家の悲劇は、始皇帝に抹殺され・体制宗教となった儒家に荒らされたことにある。