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観光のため、という作為ではなく、生活に根付いたそのままの姿が美しい街並みを 見つけると、うれしくなってしまう。
その原点の1つを、僕は坂口安吾の 「日本文化私観」に見る。
少し長いが、安吾の日本文化私観について引用しておきたい。
安吾は、「今」を生きることが大事であり、ただ「過去」を守ろうとすることは 2の次だ、と説く:
我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神と は何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた 精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もな い。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。
この事自体にあまり異論を唱える人はいないだろう。 しかし、その後に続く記述に、一部の人は眉をひそめるかもしれない:
彎曲(わんきょく)した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダ ンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。そ れが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足してい ることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、 我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求に もとづく限りは、彼等の憫笑(びんしょう)が甚だ浅薄でしかないのである。
安吾の「実質」なるものの片鱗が伺える。 安吾は喝破する:
キモノとは何ぞや? 洋服との交流が千年ばかり遅かっただけだ。
模倣を笑う人を安吾は笑っているのだ。
ヨーロッパ自身が、古代ローマやイスラム(中世の先進国)や中国の模倣から 始まっていたことを僕達は知る必要がある。
また、同様に先進国の仲間入りを果たした日本は、今、模倣から独創へと飛翔しようと している人たち(韓国・中国、その他の国々)を色々とあげつらって笑うのはやめたい。 2ch等での韓国叩きとサムスンの躍進は表裏一体だ。 君は「おかしいことをおかしいと言って何が悪い」と言うだろうか? 僕はこう答える: 「それは重箱の隅というものではないだろうか」、と。 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、でいいではないか。
龍安寺の石庭が何を表現しようとしているか。如何なる観念を結びつけようとして いるか。タウトは修学院離宮の書院の黒白の壁紙を絶讃し、滝の音の表現だと言っ ているが、こういう苦しい説明までして観賞のツジツマを合せなければならないと いうのは、なさけない。 要するに、我々が涯(はてし)ない海の無限なる郷愁や沙漠の大いなる落日を思い、 石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのであ る。 大雅堂は画室を持たなかったし、良寛には寺すらも必要ではなかった。とはいえ、 彼等は貧困に甘んじることをもって生活の本領としたのではない。むしろ、彼等は、 その精神に於て、余りにも欲が深すぎ、豪奢(ごうしゃ)でありすぎ、貴族的であり すぎたのだ。即ち、画室や寺が彼等に無意味なのではなく、その絶対のものが有り 得ないという立場から、中途半端を排撃し、無きに如しかざるの清潔を選んだのだ。 俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっと うに生きる姿がなつかしい。芸術も亦そうである。まっとうでなければならぬ。寺 があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。 若もし、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではな いのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。 日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。バ ラックで、結構だ。京都や奈良の寺々は大同小異、深く記憶にも残らないが、今も 尚、車折神社の石の冷めたさは僕の手に残り、伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一 里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはな いのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。
文章があまりに面白いので、つい長々と引用してしまう。 それはさておき、安吾の美意識を感じ取っていただけただろうか? 安吾は、伏見稲荷の赤鳥居の向こうに、切ない人間をみたのだ。
もしかしたら、石庭にしたって離宮の壁紙にしたって、 その作者の血のにじむ思いが込められているのかもしれない。 そうであれば、安吾の評論もまた変わっていただろう。 しかし、それが今と連絡しない状態をこそ安吾は問題としているのだ。 だから、安吾はこう続ける:
僕は「檜垣(ひがき)」を世界一流の文学だと思っているが、能の舞台を見たいとは 思わない。もう我々には直接連絡しないような表現や唄い方を、退屈しながら、せ めて一粒の砂金を待って辛抱するのが堪えられぬからだ。舞台は僕が想像し、僕が つくれば、それでいい。天才世阿弥は永遠に新らただけれども、能の舞台や唄い方 や表現形式が永遠に新らたかどうかは疑しい。古いもの、退屈なものは、亡びるか、 生れ変るのが当然だ。
僕は、古い街並みが好きだけど、多分、安吾はこう指摘してくれるだろう: 「当時の大工や施主の家への思いが素晴らしいのであって、人のいなくなった 過去の遺跡を懐かしむ、というのはおかしいのです」、と。
とは言え、安吾はこうも書いている:
銀座から築地へ歩き、渡船に乗り、佃島へ渡ることが、よく、あった。…漁村の感 じで、渡船を降りると、突然遠い旅に来たような気持になる。とても川向うが銀座 だとは思われぬ。こんな旅の感じが好きであった…
割と普通の感覚を安吾も持っていてくれたんだな、と思えて来ないだろうか。
しかし、安吾の真骨頂はここからだ。 安吾は、小菅刑務所やドライアイス工場や軍艦に郷愁を感じると言うのだ。 僕には、これがすぐには理解しにくかった。
安吾の言う「ふるさと」や「郷愁」と言うキーワードには注釈が必要だ。 もちろん、地理的な生まれ故郷というものではない。 ぎりぎりの緊張感・生死を賭けた場・一切の意図的な美を排した極限なまでの実用性… そこに、人間の痛々しいまでの生への希求を感じたのではないだろうか。 時にそれは「白痴」で表された狂的なものであるとしても…。
安吾の日本文化私観 「日本文化私観」は傑作なのだが、ここで引用するには段々ずれてきているようなので 一旦ここで止めることにしたい(苦笑)。
旅先として何か旅情を感じられるものを探していたら、どういうキーワードで Google にひっかかったのか忘れてしまったが、 天下の奇祭・田縣神社豊年祭 なるものがヒット。タイトルに釣られてクリックしてみたら…。
いやー、面白いページだった。 サイトによると、外国人観光客のツアースポットにもなってるようで、 白人女性のはしゃぎぶりがなんとも微笑ましい。 その日は明け方まで延々とこのサイトを見て回ってしまった。 まだ平日、朝から仕事だというのに…。
さて、ほとぼりも醒めて改めてこのサイト見渡すと、ややB級な内容が多いかな〜。 DQN街とか、地方の寂れた街とか、温泉街とか、ゴミ屋敷・電波屋敷とか。
いや、これはこれで色々と日本の現実の一端を垣間見れるわけで、 良いサイトなのだった。
とは言え、もうちょっと心なごむものはないかなと思ってリンク集を見ると、 「集落街並みWalker」という心惹かれるタイトルが。
半端じゃない。訪れた町並みをデータベース化しているし、 その数、2000ページほどあるのだ。 あなたのふるさとにも訪れているかもしれない。 僕のふるさとにも訪れられていたようで、とても興味深く読ませていただいた。
で、だ。
このサイトの「いらか組 --町並みWeb集団--」というリンクに惹かれて 寄ってみた。